豚児1号ケイタ          (12歳 1999年11月生)    豚児2号ガク           (8歳 2003年10月生)    ころすけポー (このBlogを書いている豚児たちの父親)   
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カテゴリ:思うこと( 12 )

文房清玩
文房清玩



ケイタが新しい筆箱を買って貰って嬉しそうにしていた。なんども鉛筆を入れ替えてみたり、開けたり閉めたりして遊んでいる。

筆箱とか文房具を新しくするのってうれしいものなんだよね。とカミサンと話した。

文房趣味、文房清玩(ぶんぼうせいがん)という言葉があるが、それかと思う。

そういえばずいぶん前になるが、20歳の頃、どうしても明治の文豪が使っているようなパーカーの万年筆が欲しくて無理して数万もする万年筆を買ったことがある。でも、あれだけ欲しかった万年筆なのにそれで何かを書いたという記憶もほとんどなく、今も押入れの隅でケースに入ったままホコリをかぶっているはずだ。あれはなんだったのだろうと今でも思う。 文房生活に必要だとでも思ったのだろうか。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

文房趣味
文房趣味とは、文房(書斎)を中心に発展した中国文人の趣味である。文房清供あるいは文房清玩という場合もほぼ同義である。本来的に読書人である文人は文房において起居し、同時に趣味生活を実現する拠点とした。「明窓浄几」と表現されるように明るく清浄な書斎の環境が理想とされ、この限られた空間はひとつの小宇宙と見做され、そこに関わる文物のほとんどが趣味趣向の対象となった。

中略

文房趣味の代表格として筆・墨・硯・紙が挙げられる。
文房で古書画の鑑賞に浸り、墨を擦り、詩を詠じ、友と酒を酌み交わして清談に耽ることが文人の理想的な文房生活といえる。


友と酒を酌み交わしてワイ談に耽ることはあっても、墨を擦ったり、詩を詠じたこともなく、明るく清浄な書斎(僕の部屋)は猫のトイレ置場になっていていつも猫砂が散らかっている。中国文人の理想的な文房生活とはほど遠い。
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by tonjies | 2007-05-11 06:08 | 思うこと
寝かしつける
寝かしつける


昼寝から覚めてガクがぐずっていた。ガクは寝起きがすこぶる機嫌が悪い。ぐっすり寝た後ならまだ大丈夫なのだが、寝足りないと泣き出して始末に終えない時があるのだ。抱き上げてもう一度寝るのも待つか、すっかり起こして遊ばせるか、迷っているといつまでも泣き止まない。なにをやっても気に入らないようだ。

抱いてあやしながら、ケイタも小さい時はこうやって寝かしつけていたことを思い出した。
抱きながら「わっしょいわっしょい」と囃すとその振動が気持ちいいのかケイタはよく眠ってくれた。車や電車の振動が心地よい眠りを誘うように足踏みするくらい揺すられているのが好きみたいだった。
(もちろんこの方法は脳がしっかりしていない小さな赤ん坊には危険なのでもっと大きくなってからのことだが)

だんだん眠くなってくるところを見計らってゆっくりと動くようにする。まぶたを閉じてきたら軽くゆれるぐらいで寝入ってしまうまで待つ。

この時、早く寝て欲しいとか寝たらあれをしようこれをしようと考えてはいけない。そんな親の忙しさを見透かしたように子どもは寝入ってくれないものだ。親の感情に幼い子どもはシンクロするのかもしれない。隣で寝ている親がイライラしているとその気分を感じ取って子どもはいつまでも安心して眠れないのだろう。
そんな時は「自分も一緒に寝てもいいや」ぐらいの穏やかな気持ちになるといい。

子どもを寝かしつける時のコツは、自分も子どもの寝息に合わせて呼吸することだ。僕は子どもと一緒に添い寝する時はいつもそうしている。目を閉じてまさに寝ようとしている子どもの呼吸に合わせて息を吸ったり吐いたりしていると不思議と自分の気持ちも落ち着いてくるものだ。

落ち着いた気持ちでいると子どもはいつもよりも早く寝入ってくれるし、自分の用事も早くかたづけられる。たとえ一緒にそのまま眠り込んでしまったとしても、どうせたいした用事ではないのだしそれはそれでいいのだと思う。

今日一日をめいっぱい遊んだ子どもが夜布団の中で安心して寝入ることよりも大切なことなど他にはないのかもしれない。
忙しさにかまけて今年も一年が終わろうとしている。幼い子ども達の寝顔をながめながら僕は、今がきっと一番いい時期なのだろうなと考えていた。
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by tonjies | 2006-12-31 00:32 | 思うこと
もう少し見ていたいと思った
もう少し見ていたいと思った




我が家のTVは子ども達の専用チャンネルか、お子様むけのDVDモニターになっている感があるので、大人がみたい番組やレンタルDVDの映画などは彼らが起きている時間帯にはまず見られない。

だから僕はいつも雑誌や本を片手にTVの前で画面に背を向けて寝転んでいることが多い。
見飽きたTVの映像は少しも面白くないのだけど、それを見ている子ども達を見るのは好きだ。真剣な表情やアンパンマンやハム太郎のマネをしているガクは見ていて飽きない。ついつい雑誌や本を読んでいることよりもガクの表情を伺っていることのほうが多くなってしまう。

このところガクはアンパンマンやハム太郎が数字やひらがなを教えているDVDを何度も見ている。同じDVDなのによくあきないものだと思うくらい同じビデオを繰り返し繰り返して見ているのは、自分がよく知っているシーンを見ることで安心感があるからなのだろう。
ワンパターンのもつ安心感…その嗜好は水戸黄門のワンパターンのラストシーンをこよなく愛しているたくさんの大人の感覚とも共通していると思う。マンネリと言われようがみんな結構ワンパターンが好きなのだ。

笑ったり叫んだり踊ったり全身でTV鑑賞をしているガクは見ていて楽しい。


僕は、ジョン・アービングの「ガープの世界」のシーンを思い出した。

アメリカ人がよくするように、ベビーシッターを雇って夫婦で出かけるのだが、ガープは玄関先に停めた車に乗り込んでもエンジンをかけようとしない。車の中から家の中で遊んでる子ども達の様子を楽しそうに見ているのだ。
いつまでも車を出さない夫に妻が声をかける。
「どうしたの?」
ガープはニコニコしながら窓の中に見える子ども達の姿を見ている。
「分かったわ。ここでこのまま子供たちを見るのネ!」

観劇やディナーにいくことよりも子ども達の遊んでいる様子を見ていることの方が楽しいという気持ちは僕にもよく分かる。とくに窓の外からというのがいい。子どもが遊んでいる様子を一歩下がったところから見ているのは楽しいものだ。
夜外に出て煙草を吸っていると、家の中から二人の子どものはしゃぐ笑い声が聞こえてくる事がよくある。我が家の豚児たちは父親に似て声が大きいからよく響くのだ。

窓からのぞくとレースのカーテン越しに、子ども達が暖かい部屋の中でふざけあっているのが見えた。
僕はマッチ売りの少女ではないし自分の家なのだから、中に入ればすぐにその輪に入ることができる。でも子ども達のはしゃぐ声を聞いていると、その幸せそうな光景をもう少しこのまま窓の外から見ていたいと思った。



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ガープの世界〈上〉
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by tonjies | 2006-11-04 00:11 | 思うこと
父親の子育て
母親の話をきく



僕は仕事で留守にすることが多いので、子ども達と一緒に過ごしている時間は圧倒的に母親の方が多い。
仕事から帰って夕食時に今日こんなことがあったとか、あんなことがあったとか、子ども達の様子をカミサンから聞く。
だいたい母親が疲れた顔をしている時は、言うことを聞かない子ども達を叱ったあとのようだ。
子どもを怒ったり叱ったりするには、叱っている方も相当エネルギーを使うし、イライラもする。そして後になって怒っていた自分に自己嫌悪になったり、親のほうも疲れてしまうのだろう。

来月やっと3歳になるガクは叱るという年齢ではないけれど、小学1年生の兄に対しては小言も多くなりがちだ。先月まで夏休みの間は、四六時中家にいる体力を持て余している子ども達と顔をつき合わせているのはたいへんそうだった。

そんな話を夜ビールを飲みながらカミサンから聞く。

最近、父親の子育てとか育児参加という言葉をよく耳にするけれど、僕はまず第一に父親として大事なことは、母親から子どもの話をよく聞くことではないかと思う。

各家庭にはそれぞれの事情があって一概にはもちろん言えない。だが大多数の働くお父さんに比べると母親の方が子どもと接する機会が多いのも事実だ。朝、子どもが寝ている時間に家を出て、子どもが寝てから帰宅する父親はたまの休みにそれを補うように子どもとの時間をつくろうとしている。でも、その前に母親から子どもの話を聞くべきだと僕は思う。

子どものためよりもどちらかというと母親のためにも、話を聞くということは大切だ。

子どもと接する時間が長いとそれに比例してストレスもたまる。
父親が精神的に不在で母親だけが子育てに孤軍奮闘している(ように見える)家族の話をよく聞くけれど、その話を黙って聞くだけでも母親のストレスの半分は解消できるはずだ。

せめて時間的に毎日の子育て参加が無理ならば、母親の後ろでどっしりかまえている父親像があってもいいではないかと思うのだ。
毎日カミサンから報告を聞いても、それであらためて子どもを叱ったりはしないけれど、母親の後ろに父親がいるという姿勢は、家族の中で黙っていてもきっと子ども達にも伝わっているはずだ。
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by tonjies | 2006-09-27 18:22 | 思うこと
野球盤であそぶ
野球盤であそぶ
TVゲームとの付き合い方


TVゲームは基本的に好きじゃない。僕はインベーダーゲームが流行った時の歌舞伎町であちこちからピコンピコンという音が聞こえてきた頃を知っている。この頃からこのコンピューターゲームがあまり好きではない(といい言いつつも名古屋打ちの名手だったこともあったのだが)

面白く作られているのだし子供が夢中になるのはよく分かる。大人だって夢中になっている人が多いのだから、そんな面白いものを子供に一切やってはダメだというのは行き過ぎた考え方だと思う。

この手のTVゲームがまったくダメとは僕は思わない。

でも、プログラミングされた世界は空しいということをどこかで感じ取っていて欲しいのだ。孫悟空がキントウンで世界の果てまで飛んでいってもそこはお釈迦様の手のひらに過ぎなかったように、いくら攻略してもそれはゲームを作った側の手のひらで遊んでいるに過ぎない。

『1973年のピンボール』で主人公の青年があるピンボールにのめり込み高得点を挙げ続けるシーンがある。いくら高得点を挙げても機械のゲームは何も答えてくれない。ピンボールに費やしている同じ時間にあるものはドストエフスキーを読んでいるだろうし、あるものは彼女とぺッティングをしているかもしれない。そして他の人たちが文学者になったり結婚して家庭を築いていく中で、ピンボールに魅入られた彼に得られるのものは果てしない『リプレイ』『リプレイ』の繰り返しだけだ。

僕は最近のTVゲームのCMを見るたびにこの話を思い出す。果てしないリプレイの繰り返の中で『感じるもの』『得られるもの』も確かにあるだろうけれど、それは成長期の子供には無縁なものだ。

世の中には自分の身体で感じるもっと面白い実体験がたくさんあるのに、全てがバーチャルではせっかく生きているのにもったいないと思う。
実際ケイタもガクもケームよりも枕投げやベットの上でのプロレスごっこの方がずっと生き生きとした目をして遊んでいる。
自分の体験で遊んだ方が数倍も面白いのだということを感じて欲しいと僕は願う。


確かに一人でできるTVゲームを与えていれば親としては楽なのだ。だからこんなに子ども相手の商売が盛んになっているのだろう。子どもの小遣いを吸い上げるゲーム会社の販売戦略に乗せられてなるものかという気がする。ゲームソフトのCMがこれだけTVで流されている社会というのはある意味で異常だ。

もっと子供に違う遊びを教えてこなかった大人の怠慢、TVゲームやDVDに子育て任せていることのツケを払わされるのは他ならない子供たち自身なのだ。

僕はケイタにいろいろな仕掛けをしている。自分がかつて遊んだことを少しずつ教えて、お父さんの子どものころはこうだったとよく話している。そういう話をケイタはよく覚えていて「おとの子どものころは○○だったんだよねー」 とかなり前に話したことを突然言い出すことがある。
子どもが産まれてからの楽しみは、僕が彼と一緒に子どもならではの遊びが追体験できることだ。自分がかつて遊んだ遊びをもう一度体験することが出来る。

凧揚げ、剣玉、ヨーヨー、シャボン玉…


で野球盤である。僕自身がこれが欲しかったのでケイタに吹き込んでいた。クリスマスプレゼントに買ってもらって今ふたりで遊んでいる。これで僕も野球のルールを覚えた。消える魔球が見送ればボールだということも、懐かしく思い出すことができたし、負けると悔しくて泣き出すところもかつての自分を見ているようで楽しかった。

今月小学校に入学するケイタはいつまでこんな遊びに付き合ってくれるだろう。
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by tonjies | 2006-04-11 15:20 | 思うこと
桜の木の下には…
桜の木の下には…
ゴミを拾う少年



ケイタと犬の散歩に行くと公園まで行く途中にある酒屋で野菜ジュースを買う。公園で遊んだ後そこの芝生に座って喉を潤すのを彼は楽しみにしているらしく、僕が小銭を忘れてジュースを買えない時などひどく怒ってふてくされることもあるくらいだ。

飲み干した空き缶を蹴って遊んだ後、そのまま帰ろうとしたので一度注意したことがあった。それ以来野菜ジュースを飲み干すと公園の端にあるゴミ箱まで彼は走っていって空き缶を捨ててくる。

「えらいねぇーケイタぁー」

何度かそう褒めたのでゴミはゴミ箱へ捨てるという当たり前のことがケイタも出来るようになった。

先日犬を連れて遠くから見ていると、自分の空き缶をゴミ箱に投げ入れた後に、近くにあった空き缶やゴミを拾ってゴミ箱に放り投げ始めた。
世の中には幼稚園児さえできる当たり前のことが出来ない人間が数多くいるようで、ケイタとよくいく公園でも空き缶やスナック菓子の袋などが数多く散らかっていることがある。

町の老人達が太極拳のような体操を毎朝ここで行なっているのだけど、その中の何人かのお年寄りがビニール袋を持って公園のゴミを拾い集めているのを、毎朝犬を連れてこの公園に来ている僕は知っている。

たぶんゴミを放り投げた人間はそういうことを知らないのだろう。


ゴミが傍らに落ちていようともなんとも思わず遊んでいる小中学生がたくさんいたのだけど、その中で小さなケイタが走り回ってゴミを集めている姿を遠くから眺めていた。

「おとうさん、他にも空き缶があったから、ゴミ箱に入れておいたよ」

僕と犬の側まで戻ってきてケイタが得意そうにそう言った。

「えらいねぇー、ケイタ、お父さん、ちゃんとケイタがゴミを捨てているのを見ていたよ。えらかったねぇー、お父さんはちゃんと見ていたからな」




褒められたことが嬉しかったのか、その日は帰り道でも落ちていた空き缶を拾っては、「おとうさん、ゴミが落ちていたよ」と僕に報告してきた。きりがないと思ったけれど、ケイタの気持ちの中にせっかく芽生え始めた公共心を考えるとそのまま放っておけとはいえなかった。
ゴミ箱まで戻って拾った空き缶を入れると善い事をしたと満足感かケイタが誇らしげな様子だった。

町中のゴミを拾って歩くことは出来ない。でもだからと言って何もしないのではゴミを捨てる無知な人間達とそうかわらない。今、目の前にあるゴミをゴミ箱までもっていく位のことは僕たちでも出来るのだ。

そんなことをケイタから教えられたような気がした。


桜が今週末にも満開になりいつもの公園も花見客で賑わう季節が今年もやってきた。毎年公園のゴミ箱の周りに山盛りにゴミ袋が放置される。これも一人がポリ袋一つずつ持ち帰ればこんな醜い宴の後をさらすこともないだろに…と思う。

普段この公園にあまりやってこない人間がこのときばかりに集まってきてゴミを散乱させていく姿を、桜の木々たちもあまり快く思っていないにちがいない。
自分の家ではなけれはゴミを捨ててもなんとも思わない、他人がやっているから当たり前のように自分達が食べたり飲んだりした残骸を放置していく姿を毎年毎年見ている桜…

満開の桜は確かに綺麗だけど、その下に集う人々の心根はお世辞にもきれいとはいえない。
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by tonjies | 2006-03-31 16:59 | 思うこと
幼児のいる暮らし

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幼児のいる暮らし


次男のガクが我が家の『笑い』の中心になってきている。
ほんの少しだけど人間らしい思考や行動をし始めた2、3歳ぐらいの子どもの仕草や言葉使いは予想がつかないだけに面白い。
赤ちゃんではないけれど、はっきりとした自意識をもってはいない幼児の仕草やカタコトの言葉づかいがもつ面白さというものは今だけしか味わえないものだ。

今年小学校の新一年生になる兄のケイタの成長の過程が記憶にあたらしいので、ガクの仕草や言葉使いにはある程度客観的に観る余裕がある。
でも同じ両親のもとに育つ兄弟とはいえ個人差があって、兄とはまた違った個性を発揮しているガクを見ていると、ケイタの時はこうだった、ああだったと比較検討しながら幼児がいる暮らしが2倍楽しめてるような気がするのだ。

なによりも幼いガクの仕草を僕たち夫婦だけでなく兄のケイタも一緒になって楽しんでいるところが僕は好きだ。
「アンチャン」 と初めてガクに呼んでもらった時、ケイタは照れくさそうにしていながらも誇らしげな嬉しさは隠しきれない様子だった。

ほんの数年前ケイタが2、3歳の頃同じようなことで僕たちを楽しませてくれていたことを思うと、一緒になってガクの仕草に笑いあっていることがとても不思議な気がする。

ガクに第一線を譲ったとしてもまだまだ可笑しなことをしてくれるケイタだけど、ガクって可愛いよなぁという気持ちを一緒に共有しているところが家族なのだと改めて思う。
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by tonjies | 2006-03-02 21:20 | 思うこと
朝の寝顔
朝の寝顔



朝僕が出かける時間には、まだ二人の子どもたちは寝ていることが多い。犬の散歩もあるので僕の出勤前は忙しい。一通り朝の用事を済ませるともう出勤時間になっているのだ。

そんな忙しい朝でも出かける直前に僕は2階に上がっていって二人の寝顔を眺めてから家を出ることが習慣になっている。どんなに忙しくて慌しい朝でもこれだけは行なっている。暖かい布団の中で寝ている子ども達を見ると、この季節の寒い外に出て行く気持ちも引き立たせてくれるような気がするのだ。

ケイタが産まれた時からそうしている。たまに兄弟のどちらかが起きて僕を見送ってくれることがあるけれど、それでもまだ寝ている方の寝顔を見に行かないとなんだかその日は一日中落ち着かない。

寝ている二人を見に行くと、最近はガクがお兄ちゃんに寄り添って同じポーズで寝ているのをよく見かける。兄弟だから寝相までシンクロするかのようだ。
暖かい毛布に包まって夢の中にいる豚児たちの幸せそうな寝顔が、寒空の中に出かけていく僕の胸の中にほっと暖かいものを与えてくれる。朝の冷たい空気の中を駅まで歩いている時も、寒いけれど子ども達があの暖かいぬくぬくとした様子で寝ていると思うとなんだか楽しい気持ちになってくるのだ。ついさっき見たその光景が僕の胸の中で暖かくとどまっていて、僕はそれを心のホッカイロと呼んでいる。

朝の時間は貴重だ。独身の頃はぎりぎりまで寝ていて起きてから5分で家を出るような生活をしていた。
起きてまず1分で着替えて、トイレで1分半、1分で顔を洗って歯を磨き、その間にトーストされていたパンを1分半で食べて靴をはく、これでジャスト5分…(5分しかないのにパンまで食べようとしていたなんて・・・)

その頃のことはたまに思い出す。起きて一時間後に余裕を持って出勤している今の生活と比べると考えられない気がする。でも毎日そうやっていたのは他でもない僕自身なのだが・・・。
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by tonjies | 2005-12-06 00:14 | 思うこと
みんな違って、みんないい
みんな違って、みんないい


朝、長袖のジャージを幼稚園に着ていくように母親から言われたケイタが落ち込んでいた。先月の衣更え前の話だ。少し風邪気味だったので長袖長ズボンの幼稚園ジャージにするように母親が言ったのだが、クラスのみんなと違う格好になることを気にしてケイタはブルーになっていた。

最近ケイタは、こういうことが多い。少しでもみんなと違っていたりすることをひどく嫌がるのだ。サッカーの練習の時もそうだ。コーチが子ども達の名前を覚えるために最初は幼稚園の運動着を着ていくことになっていた。もう私服でもいいといわれて初めてTシャツで出かけようとすると、「みんなと違うんじゃないか」と朝から心配していた。

たぶん自信のなさの表れなのだろう。

「いいかい、ケイタ、みんなと違っていたら恥ずかしいという気持ちは分かるけど、そうじゃなくて、みんなと違っていたら目立ってカッコいいという考え方もあるんだよ」

と説明してみたが、まだケイタは恥ずかしいという気持ちが強くてとてもそうは思えないようだ。
子どもなら多かれ少なかれこういう傾向がある。みんなと一緒でありたいと思う気持ちは分からなくもないが、それをおもうあまり強迫観念に陥っているとしたらつまらないことだ。
学校や幼稚園などの集団学習の場の弊害といってもいい。学校生活(集団で教育を受けること)はいい面もたくさんあるのだけれど、個性を大切にという割には同じレールに乗ることを強いている。学校の構造自体が没個性の集団を育成することを目的としているようだ。

その中で「ひとはひと、自分は自分」と言い切れるだけの強さを持てる子どもがどれくらいいるだろうか。自分に自信ない子どもは周りに合わせることで自己防衛せざるを得ない。

学校というシステム自体、もともとは優秀な兵隊を作るために始まったものだ。優秀な兵隊=従順な上官の命令に絶対服従する没個性な国民(大人の言うことを聞く、大人の都合がいい子供)を作り出すため、集団で教育を受けさせるシステムを国家が考案し普及させていった。
そこでは個性的であることは害悪であり没個性こそが正義とされていた土壌がある。

もちろん今の学校教育はその目的は異なるし、いい面はたくさんあるのだけど、その構造そのものにかつての従順な兵隊育成のエッセンスが残っている気がする。
学校なんてしょせんそんなものだという認識が必要なのだ。学校を理想化したり幻想を抱くのはやめにしたほうがいい。その基礎認識からよりよい学校を考えていくべきだと思う。


みんな違って、みんないい。
一人一人が違うのだから、画一である必要はない。違うことは決して悪いことではない。

でも、日本の社会そのものにも同じことが言える。先月終った愛知万博でもそうだ。よくもまあ混んでる所にわざわざいくなぁーと感心するが、混んでいるからこそ人々はそこに行きたがるのだ。混んでいるからこそ出かけていって「やっぱり混んでいる」ということを確認したいらしい。人と同じ行動をとって安心することこそが最大の娯楽になっている。

特に最近の日本社会にありがちなこの集団への帰属性に僕は違和感を感じる。

「ひとはひと、自分は自分」と言い切れるだけの強さを持つことは大人でも難しい。
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by tonjies | 2005-10-10 05:28 | 思うこと
産まれる前の記憶
産まれる前の記憶



お風呂の中でケイタと話していた。

「おとうさん、コロは泳げる?」

「泳げるよ。犬掻きっていって前足をこういうふうに動かして泳ぐんだ」

「キリンは泳げるかな?」

「ケイタ、哺乳類の動物はほとんど泳げるよ。ほら、お母さんのお腹の中にいる時に羊水の中を泳いでいるんだから…ケイタもお腹の中にいたときにグニュグニュ動いてたよ。あれはきっとクロールをやっていたんだと思うぞ」

「お母さんのお腹をよく蹴っていたの憶えているか?」とケイタに尋ねると

お腹の中にいた頃のことをよく覚えていると言いはっていた。


「5回思いっきり蹴ろうと思ったけど上手くいかなかったんだ…だって、水(羊水)の中にもぐっていたから…」


お腹の中にいた記憶はともかく、ケイタは自分がまだ存在していなかった時代があるということがまだ理解できていない。
新婚旅行のビデオを見ていたとき、ケイタが言い出した。

「ケイタはどこにいるの」

子ども達を中心に撮っているので、うちのビデオには必ずケイタ自身が登場している。そんな映像しか見ていないから両親だげが映っていることに違和感を感じるようだ。まだ産まれる前のビデオには自分が映っていないという当たり前のことが、彼にはなぜだか不思議に思われるらしい。

「ケイタはどこにいるの」

「どこにいるのかなぁー。まだお腹の中にもいないし…きっと空気だったんだよ」

ケイタはあの時どこにいたのだろう…
と僕もふと思う。

僕たちはどこから来てどこに行くか…というのは人間の歴史が始まって以来の宗教的課題だ。

今、ケイタもガクもそこにいることが当たり前のようになっていて彼らが居なかった頃のことがほんの数年目のことなのに、僕にもよく思い出せない。遠い昔の幻のように感じてしまうのはなぜだろう。

あの時、ケイタやガクは本当にどこにいたのだろう。もう僕たち夫婦の子どもとして産まれるべくどこかでひっそりと準備していたのだろうか。

ありがとう。僕たちのところにやってきてくれて、
君たちに出会えて本当によかった。

こんな気持ちを持っていることを、少しづつ伝えていきたいとおもう。でも、それはすでにしっかりと伝わっているような気もするのだ。
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by tonjies | 2005-10-03 23:11 | 思うこと